昼の部はおなじみ「心中天網島」の通し。24日に見てきた。これは何度も見ているし、歌舞伎でも見ている。しかし、この作品が何故名作なのか、よくわからなかった。今回、プログラムに木ノ下裕一氏が「近松の声を聴くために~陶酔させてくれない心中物~」と題する文章を寄せている。それを読んで、この作品の価値がやっとわかってきた。
たとえば、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」、オペラの「ラ・ボエーム」、同じ近松でも「曾根崎心中」のような純愛、熱愛、ラブストーリー、とは全然違うのだ。そういう「恋愛物」をこの「心中天の網島」に期待するから、なんか変な感じがするのだ。
この浄瑠璃の最初の場は「北新地河庄の段」、お富与三郎のような「見初めの場」はない。そのシーンはこの浄瑠璃が始まる前に終わっている。遊女小春が北新地のお茶屋に来るところから始まる。そこへ「魂ぬけて」出てくるのが治平衛。ここは歌舞伎と違って、スーと出てくる。床の浄瑠璃は、中が織太夫と清介、「天満に年経る千早経る」からは津駒太夫と清治。本来は呂勢太夫だったが休演していた。惜しかった。呂勢太夫で聞きたかった。もっとも津駒太夫も悪くはないが。後半、小春を遣ったのは蓑助だった。もちろんとてもよかった。
ここで強調されるのは、小春の立派さと治平衛のあほさ加減。小春は、治平衛の妻おさんに思い切ってくれと言われ、心ならずも治平衛に愛想尽かしをする。そんな治平衛を心配して兄粉屋孫右衛門が侍に化けて小春に会いに来る。孫右衛門は弟夫婦と甥姪が心配で気になって仕方なかったのだろう。
続く「天満紙屋内」、歌舞伎では「時雨の炬燵」にあたる。歌舞伎では、治平衛が新地で遊ぶのは舅五左右衛門が商売で損をして、それが治平衛の遊びのせいにするため、無理に新地に行ったが、小春に出会い思わぬ深間にはまってしまった、と言う事になっている。おさんが父五左右衛門に、治平衛が新地通いは全部父の為、わたしは新地に行く治平衛の背中を拝んでいた、なんて台詞があるが、オリジナルの文楽ではそんな台詞はない。
小春がライバルの江戸屋太兵衛に請け出されると、治平衛は金がないから身請けができなったと言う噂が出回り、商売にも差し障りがある。だから、小春を助けてくれと、自分の事は顧みず、質に入れる着物を用意するおさんが、なんとも立派である事が強調される。この場の浄瑠璃は口が希太夫と清馗、奥が呂太夫と團七。
次の「大和屋の段」になってやっと唯一の切り場語り、咲太夫と燕三になる。そして最後が「道行き名残の橋づくし」。たしかに名文ではあるが、観客をうっとりとか熱くさせてくれない。「曾根崎心中」のような陶酔感、美しさが感じられないのだ。「曾根崎心中」が大ヒットしたときは「心中ブーム」が起こったが、この「心中天の網島」ではそんな事は起こりようもない。近松が、「心中みたいなこと、したらあかん」と言っているような気がする。
この作品は外題だけを見ると、「ロマンチックな恋愛もの」に思えるがそうではない。そう思って見る者を見事に裏切ってくれる。それがこの作品の価値であることが初めてわかった。
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