ここからは単なる私感である。
この主人公の吉村貫一郎の事は子母沢寛の「新撰組三部作」の一つ「新撰組物語」で知っていた。浅田次郎の原作は未読。ちょっと前までは、新撰組の事ならまず子母沢寛の新撰組三部作を読むべし、だったのだが、今はそうでもないのだろうか。
子母沢寛の書き方では、この吉村貫一郎は、卑しい奴なのだ。金に汚い、とにかく、金、金、それしか考えていない感じなのだ。幕末は激動の時代、勤王の志士は列強の支配を避け新しい時代を作ると言う大義があった、新撰組は京警護と言う仕事があり、その為にちからを尽くした。勤王の志士は京を焼き払おうとしたが、それを阻止したのは新撰組である。
最後も、浅田次郎・石田昌也とは違って、子母沢寛の描く吉村は誠に情けない。鳥羽伏見の戦いの直前、幾ばくかの金が分配された。吉村はその金を早速故郷に送っている。その時隊士は五十六人、一人減っても目立った。伍長の島田魁(しまだかい)は、「吉村先生、脱走かと思いましたよ」と笑ったと言う。
大阪で大野を訪ねてはいるが、大野は吉村を卑しむような目付きで見たと言う。そして、今度は勤王に仕えたいと言う吉村に、武士の魂をもっていないとか、果ては、南部武士に吉村のような男がいたと言うのは我が藩末代までの恥、とまで大野は言っている。そして、切腹を勧めるのだが、その最期も本当情けなく、小刀と金を家に送ってくれと言う書き置きがあったと言う。
新撰組では、戦闘で死んだ隊士より、私闘や処刑で死んだ隊士の方が多かったと言う。処刑は主に切腹だが、切腹と言っても三種類あった。扇子腹と称して、切腹人が刀を撮る前に首を落とすもの。これは介錯人に人斬りの稽古をさせると言う目的もあった。次は介添え腹で、知人友人が手助けするもの、最後は切腹人をうっちゃておくもの、これが一番残酷だっと言う。吉村も一人腹で、十畳の部屋を血だらけにして、悲惨をきわめた。この話は子母沢寛が実際に生き残りの隊士、子孫から直接聞いたものだ。
子母沢寛の新撰組三部作が最初に出たのは昭和一桁、この時はまだ隊士の生き残りが生存していたし、実際に隊士と関わった人も実在していた。僕が持っている中央文庫版の「新撰組物語」は昭和54年に出版されている。
こういう事をしっているのだか、吉村貫一郎に全く感情移入できず、しらっとした感じで見ていた。なんとも情けない奴、としか思えない。介錯をして、なおも金をせびるところは、おまえはそれでも武士か、と言いたくなるくらいだ。だから、まわりですすり泣き、嗚咽が聞こえても、なんともない、しらじらとした気分になるだけ。
原作は未読だが、よく考えてみると、この情けない人物を悲劇の人に祭り上げる、浅田次郎、そして婦女子だけでなく、大の男の涙、事実前の席の紳士は眼鏡をはずして涙をぬぐっていた、を誘う石田昌也の筆力はたいしたものだと言えるのではないか。
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