このウエスト・サイド・ストーリーと言う作品は厳重に、厳重過ぎるほど、著作権によって守られている。以前、びわ湖ホールでミュージカルナンバーを集めたコンサートがあった。その時、他のミュージカルは原詞と訳がプログラムに掲載されたが、ウエスト・サイド・ストーリーはそれが出来ず、概略だけが載った事があった。
今回の宝塚版はアメリカからジョシュア・ベアガッセ(Joshua Bergasse)を迎え、宝塚からは稲葉大地が演出補として参加した。また、この公演(東京公演を含む)では訳・訳詞が新しくなった。
Bergasse ってどこかで聞いたような、と思っていた。もう一つgを付け足すと Berggasse 、そうウィーンでフロイトが開業していた場所ではいか。
それはおいておいて、
以前劇団四季で見たのとほとんど同じである。このような外来ミュージカルを宝塚で上演すると、えてして宝塚風に改竄が行われる事があるが、それが無いのは良かった。最後に「ショータイム」などと言うものがないのがあっさりしていい。カーテンコールが音楽付きだったのが四季とは違うところ。
短い序曲の緞帳が上がる。この序曲だけで、良い演奏だとわかる。それに、オケはマイク/スピーカーをほとんど使っていないように聞こえる。それでいて、マイクを使った歌唱と自然に溶け合っている。「マンボ」のトランペットのハイトーンがきれいに決まっていた。それなのに、第二幕 somewhere のなんでもないところ、と素人が思えるようなところだが、でひっくり帰ったのには驚いた。
幕開きの単なる動き、実は計算され尽くしたダンスと言うところから、映画や四季とほとんど同じ。それに、ベルナルドのダンスが映画のジョージ・チャキリスをおもわせる。ただ、「マンボ」が今一つ。ここで、シャーク団の踊りは「クラシック」、一糸乱れぬ踊りで、そこは良いのだが、ジェット団の踊りに「モダン」さが足りない。宝塚歌劇団の動きはクラシックバレエだと聞いた事がある。彼女達には、映画や四季のようなモダンダンスは苦手なのだろうか。
ただ、宝塚で上演したための欠点もちらほらみられる。例えば、トニーはテノールだが、男役が歌うため調子を変えて、感じがオリジナルと変わったものになっている。それでも、ホセ・カレーラスのトニーよりははるかにましだが。また、「クラプキ巡査殿」と言うナンバーで、ソーシャルワーカーは男声が裏声で歌うのが面白いところだが、そこが台無しになっている。ジェット団に入りたくて、いつも後をついていくる女の子がいるが、彼女が「必死になって男になろうとしている女の子」に見えない。あたりまえだ。今になってわかったのだが、彼女トランスセクシャルなのだ。それに、「兄さんはスカートはいて男を追いかけ、姉さんは付け髭つけて女を追いかけている」なんて歌詞も出てくる。
東京の公演の時、はたしてこれを宝塚で上演する意義はあるのか、と書いていたブログを読んだ事があるが、僕もそう思う。聞いた話だが、以前宝塚大劇場で上演したときはフィナーレがなかったとか。たしかに、この演目では宝塚流のフィナーレ・ショウタイムを付ける事は蛇足、どころか作品をそこなう。だから東京国際フォーラムと梅田芸術劇場で上演したことは良いだろう。ただ、そこまでして上演する意義はあるのか、アメリカ側もそこまでして宝塚に売りたいのか。四季に売れればそれで良いではないか、と思ってしまう。
ブロードウェイ初演から60年以上たっているのに、音楽・踊り・演出は,全く古びていない。素晴らしい事だ。また、ここで提議された問題は60年以上たっても解決されてない。まったく、暗澹たる気分になる。そこが、上演する意義になるのだろうか。
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