第一幕幕切れで緞帳が下り、第二幕の前奏曲は緞帳を下ろしたまま演奏される。幕が上がると、大使館の舞踏会の場である。
脚本・作詞はアラン・ジェイ・ラーナー、原作はバーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」。映画では、アスコット競馬場の場で、ヒギンズ夫人が、教授とピカリングに、なんてあきれた人達、あなた方は生身の人間を使ってお人形さん遊びをしている、と言う所がある。ただ、今回の上演ではあまり強調されていなかった。
このミュージカルで一番大切なテーマ、それは「女性の自立」である。
ヒギンズ教授とピカリング大佐はイライザを淑女にしようとした。それはヒギンズ教授の母が言う通り、「お人形さん遊び」ではあったが、同時に「人形」を「人間」にしようとした事でもあった。だから、舞踏会の後、やったやった人間を作ったぞ、とヒギンズ教授が喜ぶのだ。
しかし、「一人前の人間」に、「一人前の淑女」にして貰った結果、イライザは「自立」を奪われた。花売り娘であった時の彼女は立派な「職業婦人」であり「自立した女性」であった。実際父親が金の無心に訪れる。教育が終わり、彼女は「卒業」する事になった。しかし、卒業してもすることがない。二人に教えて貰ったのはこ「正しい言葉使い」と「淑女としての礼儀作法」だけ。この二つだけでは自立して生活して行く事は出来ない。ヒギンズ教授が、結婚するのもいい、母が適当な相手を探してくれるだろう、と言うと、私も堕ちたものだ、以前は花は売ったが身体は売らなかった、と言う。この時代、下層階級の女性は自立して生きていくことが可能だったが、上流階級の女性は男性に寄生して生きていくしかなかったのだ。なんて皮肉!その内、イライザは教授に、私はあなたの人形じゃない、と宣言するに違いない。
それに、礼儀作法を教える立場にいる教授が母親には、礼儀も行儀もなってない人として扱われている。
とにかく、このミュージカルは原作がバーナード・ショーであるだけに、皮肉が一杯だ。ピグマリオンは自分の作った人形に恋をして、神々にこの人形を人間にしてくれと願う。願いは聞き入れられ人形は人間となりピグマリオンと結婚する。しかし、バーナード・ショーの「ピグマリオン」は人形を人間にする事には成功するが、結婚しようとはしない。一節によると、ヒギンズ教授はゲイで、ピカリング大佐と「夫婦」、それでイライザを「娘」として迎える、との事。突飛ではあるが、これで最後の台詞「わたしのスリッパはどこだ」の説明はつく。この台詞をよく読んで欲しい。これが、自分が結婚しようとしたが諍いの為一旦出ていったが結局は帰ってきてくれた恋人に言う言葉か。この台詞を言われるのにふさわしいのは、女中・秘書・娘である。
イライザの父は、ヒギンズ教授のせいで大金を手にし、結婚までするはめになった。しかし、これを幸せと呼んで良いか。第一幕で居酒屋の亭主に疫病神扱いされていたドゥーリトルは、金を手にし、第二幕では、全く逆の扱いを受ける。しかし、良かった良かったと喜んでばかりはいられない。彼は金を手にした事で、その代償として上流階級のしがらみに絡み取られる。彼が酔っ払っているのは、と言うより、酒に逃げるのは、金のせいで自由を失うのがわかっているからだ。
でも、舞台を見ていると、皆とてもしあわせで、最後は、ヒギンズ教授とイライザが結ばれるのか、と思ってしまう。それは、音楽がよく出来ているから。と言うより、そのように思わせるように出来ているから、それに、ブロードウェイ・ミュージカルは "a boy meets girl" と言う固定観念があるから。それをとっぱらって見て欲しい。このミュージカルがいかに皮肉に満ちているかがよくわかる。
この構造は、ミュージカル "Elisabeth" と全く反対である。エリーザベトとトートの最後の台詞。「世間は私の/あなたの人生の意味を探ろうとするが無駄な事。なぜなら私は私だけのものだから。」とわかったようなわからないような、結局よくわからないが、それでも二人が結ばれ目出度し目出度しかと思う。しかし、本当にハッピーエンドか、そうじゃないぞと音楽が、最後の一音が言っている。
この「マイ・フェア・レディー」が面白いのは、このように一筋縄でいかない内容を持ってはいるが、とても楽しい楽曲にあふれているからだろう。
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